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辰巳ヨシヒロ『黒い吹雪』

「画面転換がえらい映画的やな。これやと二コマくらいで表現できるやんかコマ数が無駄とちゃうか。まんがの命はデフォルメや」「せやさかいこれはまんがではないんや。まんがの手法を借りているけれど今までのまんがでないものを表現したいんや」
辰巳ヨシヒロ『劇画漂流』より

自伝的大河『劇画漂流』では、勝見ヒロシ(=辰巳)と兄・興昌(=桜井昌一)の兄弟がまんが論をぶつけあうシーンが何度と登場する。伝統的な漫画技法を重んじる兄に対して、文学や映画に関心のあったヒロシは、スラップスティックなそれまでの子供向け《まんが》とは異なる《もっと奥深い心理劇》を追求していた。まんが表現の拡張のために、自分の想像の世界に作品が追いつくためには、荒々しくも力強い躍動感のあるペンタッチや、現実的な時間の経過をシュミレートするようなコマの流れ、そして年長者の鑑賞にも堪える主題や設定が必要だった。

そうした試行錯誤の末に生まれた作品が、『黒い吹雪』だ。本作が執筆された56年10月の時点では、まだ「劇画」という言葉は誕生していない。扉の部分には「スリラー漫画」と銘打たれている。殺人の疑いで逮捕された若いピアニストの男が、凶悪犯と手錠で繋がれたまま護送中に発生した列車事故を機に逃亡し、猛吹雪のなかを彷徨う。暗闇のなかでピアニストの男は、事件の経緯を述懐する……。アレクサンドル・デュマ・ペールの『モンテ・クリスト伯』から脱獄という着想を得るなど、設定には小説や映画からの影響がある。悲劇的なストーリーや笑いを排した心理描写。そして、その物語に応えるだけの、たっぷりとしたコマ運びと絵の重量感。斜めに吹き付ける風が、太い線となって画面を黒く染める。

いま読めば、なんてことのないストーリーではある。あらゆるマンガ表現が開拓され尽くしたのあとの、現代の感覚では。しかし当時は「これが創作のダイゴ味やったんか」と自身で驚くほどに、エポックな作品だったという。質量感、スピード感、物語の語り方……これらの試みは同業者から歓迎される。当初は小さな波紋でしかなかったものの、やがて「劇画」という現在にまで連なる一大潮流へと繋がっていった。ゆえに本作は古典として紐付けられている。歴史そのもの、とも言えるであろう。しかし、そうした歴史を訪ねると同時に、本作に刻み込まれた線のひとつひとつが漏らす息遣いに耳を澄まし、マンガの持つ色褪せることのない魅力に感動することができるのであるし、またそうした心持ちで臨むべきものでもある。

カバーを外すと56年当時の、日の丸文庫版の装丁が完全再現されている。本作の刊行は『劇画漂流』のヒットに依るものではあるだろうが、マンガの歴史を振り返るにあたっても、こうした丁寧なリイシューはうれしいものだ。

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限定復刻版 黒い吹雪 / 辰巳ヨシヒロ
販売価格(税込): 1,575 円
A5判並製 136ページ
発行日: 2010/01/20