ダニー

島田虎之介『ダニー・ボーイ』

独自のマンガ世界を確立する作家・島田虎之介の、09年発表の四作目で、目下最新作(そろそろ新作が出る……のだろうか?!)。

1976年の夏。第二次世界大戦後の日本を舞台にした奇抜なブロードウェイ・ミュージカル『極東組曲』。その当時、アメリカ建国200年を記念して日本でも中継放送されたという。このミュージカルで日本人官僚役を演じ、堂々たる独唱で注目された無名の日本人俳優。彼こそが本作のキーパーソンとなる男だ。そのステージングには『NYタイムズ』も手放しの賞讃を送り、また、遠い日本で放送を見ていた若き日のシマトラ少年も口をあんぐりさせるほどの深い衝撃を受けた。異色の物語であるだけではなく、流麗な歌曲に彩られた『極東組曲』はロングランヒットを記録。しかし、その年のトニー賞では作品は作品賞をはじめ四部門にノミネートされるものの、強力なライバル(映画にもなった『コーラスライン』ですね)に阻まれ、助演男優賞候補に選ばれた無名の日本人俳優は、惜しくも賞を逃した。その男の名は、伊藤幸男という……。

精巧な語り口に、フムフム、と頷いてしまうものの、これはもちろん全て創作のお話(ただし元ネタはある)。本作は、伊藤幸男という一人の俳優の軌跡を、様々な角度から見つめる作品だ。登場する人物は、過去、劇団で直接に関係のあった人間から、生まれたての赤ん坊だった彼を取り上げた助産婦、さらには街でただ一度すれ違っただけの人など。人々がその記憶を振り返るとき、物語は浮かび上がる。語り口としてはある意味ではシンプルで、最初に読んだときはなんとなく意外な感じがしたものだった。少なくとも、『ラスト・ワルツ』のような、小さな物語が最後に大きな物語に結実し、膨張して爆発してはカタルシスを生むといったようなタイプの作品ではない。類い稀なる才能を持ちながらも、時の運に恵まれず、名も残すことなく消えていったたった一人の舞台俳優の人生が、あくまで物語の中心なのである。

この作品にたまらないものがあるのはどうしてだろう。青春の栄光と挫折の物語だから、というのは少なからずある。「何を見ても昔を思い出す…今思い出しとかないと二度と無いみたいに」「昔はよかったもの」「今見たことはすぐ忘れるのにね」「記憶すべきことなんて今や無いのよ、音楽も芸術も…」。【記憶】がモチーフである以上、ノスタルジックなムードが通底している。思えば、彼が駆け抜けた戦後の約40年という季節は、社会が急成長し、あらゆる夢が花開く時代であった。芸能や芸術は常にその傍にあり、そんな日々を「楽しい時代だったねえ」と振り返る人もいる。

語り部たちは、それぞれに挫折したり、それなりにうまくやっていたりもする現代の生活のなかで、なおもみな彼の声の記憶を胸に抱え続けている。それはどんなに遠くなってしまった記憶であれ、かつてたしかに存在した「夢の時代」そのものの温もりなのではないか。切ない物語ではある。しかし、伊藤幸男は決して気を落とすことがなく、生涯の最期まできっと明るい歌声を響かせていただろう。傾きゆく運命に反して、どこまでも溌剌と生命力を輝かせていた彼の姿に、このマンガの語りを通して、読者ももう一度夢を見るのである。

(方便凌)

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ダニー・ボーイ / 島田虎之介
販売価格(税込): 1,260 円
A5判並製
発行日: 2009/08/10